なるほど!な事&大切な事

これから、何回かに分けて、出来れば詳しく、わたし自身の体験も踏まえつつ記事を上げます。

記事のテーマは、

・つらいもんはつらいし、楽しいもんは楽しいし、欲しいものは欲しいし、アタマ来る時は頭来る。

・思考や感情は【誰のもの】か?

・【自分や私】はいつもいるのか?

・【自分や私】は作られたもの?初めからあるもの?

・自分と世界の見方、捉え方

・リアルに感じる【自分】の世界を
どう生きるのか?

・リアルだから本当か?

と、ざっとこんな感じです。

今は文章を書く都合上、わたしと使います。

わたし自身は、わたしがいないという気付きが随分前にありました。ですが、それが長続きする事は無かったです。

詳しくは、上に書いたように記事で上げますが、いわゆる「私は〜」とか、「私の〜です。」なんて日常生活で言う所の「私」はやっぱりいない、というのがわたしの認識です。

わたしの認識であって、いわゆる、今までの長い人生で普通に使ってきた「私」の認識ではありません。

「じゃあ、私がいなかったら体験も出来ないし、現に、こうやって記事を書いてるお前、つまり、私はいるじゃないか!」と、つっこまれそうですが、わたしこと、なるほどが云う「私」とは、

思考や感情、記憶や五感、観念、肉体感覚などの働きの主体が存在する、と思考自体が作り出したプロセスの集合体、

または、【何か主体が無いと何も体験できる筈がないという頑な信念が産んだもの】

というものです。

要するに、実体はない、が、存在感があるという摩訶不思議なものが、いわゆる、「私」だと、腹落ちしてます。

存在感は半端なくある。故に、苦しい時は苦しいし、楽しい時は楽しいし、コンにゃロ〜って時はコンにゃロ〜、です。

良く云う非二元でいうそれは幻です、って言うのは、ある意味そうだが、いわゆる日常生活で身体を持って生きてる以上、「幻です」なんて一言で片付けられるもんではないです。

日常生活での思考や感情、観念の働きや肉体感覚は、単なる働きではあるけど、つらさや大変さ、面白さ、楽しさ。これはこれである、っていうのが、わたしこと、なるほどの認識です。

「私」はいない、っていう気付き、認識は確かにあります。恐らく、誰でもそれに気づくことも出来ると思います。

ですが、この「私」がいない、って気付きが一瞬もしくは数瞬であることがどうも多いようです。私もそうでした。気づいても、湧いてくる思考や感情にアタフタ、モヤモヤして「なんだ!やっぱり、自分、私はいるじゃないか。だからこそ、こんなに苦しいのに私がいないなんて馬鹿げた話しがあるか!!」って実際思いました。

更に「私」は巧妙で、こうささやきます。
【私がいない、って気付いたオマエは特別なんだぞ】

こうなると、
【私はいない、と気付いた特別な私】のような、おかしな事になります。高慢になったり、もします。

私がいなけりゃ気付いた私もいない、なのに、「私」は【気付いた特別な私】を作ろうとする。

気づいても、それが一瞬だった場合は大抵は、こうなるではと思います。ただ、思うだけでなく、禅の中ではよく「生悟り」といってこれを戒めます。

確かに「私」はいません。ですが、気づいても、思考もあるし感情もあります。昨日までの世界もあります。その世界の中で、改めて、時間をかけて、自身の気付きを見直される。

これがとても大切だな、と思います。

「私」がいない事に気付いたたら、昨日まで問題だと捉えていた事が一気に無くなったり、解決したりはしません。

でも。

今まで「私」「自分」だと思っていたもの、正に【思って居た】ものがいないと、分かれば、問題が一気に解決はしませんが、昨日までの世界を同じように見ることは出来ないし、捉えることもできなくなる。

結果として、抱えていた悩みや苦しみ、悶々思考がす〜っと消えるような立ち位置、視点、捉え方になる、とは云えます。

ですが何度も言うよう、問題の一切合切が無くなるようなことはありません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
禅の言葉にこんなような言葉があったと思います。

【悟る前、畑を耕していた。そして、悟った後も畑を耕す】

気付きがあるまでは、実際に苦しい、大変な問題もある。それを楽にしたり、解決したりは必要です。当たり前です。

怪我して痛ければ対処する。

それは収入をあげるためのスキルアップかも知れないし、ストレス解消やモヤモヤ思考を減らす、手放しだったり、肉体の疲れを和らげるストレッチや温泉に入ることだったり色々です。

やることもやる。

一方で、先ずは今までの【人生、世界、自分の捉え方は本当だったのか?別の捉え方は無いのか?】という、疑問が気付きにつながりもします。

気付いた後も気付いたなりに、畑を耕す。
つまり日常生活の中で、自身の生をしっかり生きる。

スピリチュアルを日常生活の解決の手段として、何でもかんでも当てはめてどっぷり浸かる事なく、気付く、気付かずに関わらず、しっかりと自身の生に責任を持つ、誰かに主導権を与えない。

そんな事をしっかり持って、気付きだったり、スピリチュアルに向かうなら、今まで生の捉え方と異なる認識に至るのでは、と思います。

鵜呑みにしない。
疑いをもつ。
自身に正直である。
生を自身で体現する。

これらはとても大切です。