自分がいない その2


自分がいない ことを考えたり、実験的なもの通して考える3回のシリーズです。

こちらが、自分がいない その1です。

自分がいない のその2の記事は以下です。

【自分】というものをあなたがどうとらえているか、そして、そのとらえてるものに【自分】という名前を付けて来たことを改めてか考えてみよう、見直してみようと思います。

 

今、あなたは、記事を読んでます。少し前には寝起きで歯を磨いていたかもしれません。朝ごはんを食べていた方もいるでしょうか。
昨日の出来事を思い出したり、今日の予定にウキウキしている方もいるはずです。経験の中身は違えど、こういったことが日々続いていると思います。

見たり聞いたり、触ったり、感じたり、考えたり、思い出したりする。そういった積み重ねそのものが、正に自分の人生だと思い、信じてきたはずです。

「自分が見た」
「自分が聞いた」
「自分が触った」
「自分が感じた」
「自分が考えた」
「自分が思い出した」

自分 - 見る
自分 - 聞く
自分 - 考える などは常にひとつながり。

「【自分】以外の一体誰が見たり聞いたり考えたりなどするものか!」
そう強く頑なに掴んでいる、いえ、当たり前となっているでしょう。
「考えたり、味わったり、感じたりするのは【自分】がいるからこそだ!」

その中心にドッかといる自分って何でしょう?

あなたの周囲にはたくさんの物があります。それは目でみたり触ったりまたニオイを嗅いだりといったことを通して、あなたは、そのモノを「認識」してるはずです。「ああ。コーヒーカップだな」と。主に五感の刺激を通じて、いえ、逆に言えば五感の刺激なしには、モノを認識することはないでしょう。

では。確実に「自分がいる」 モノと同じか、それ以上に確実に「いる」と認識している「自分」

何を根拠に「自分がいる」と、あなたは確信してますか?

自分は見れません。 見れるのは「身体」です。
自分は触れません。
自分にニオイはありますか?
自分に色や形はありますか?コーヒーカップのように。
自分に音はしますか?

1つ1つ分かれたモノのように、見ることも出来ず、触ることも出来ず、ニオイもなく、色もカタチもないのに、本当に【自分】なんているのでしょうか?

少し視点を変えます。自分というのも名詞、つまり名前です。ひとつ前の記事でやった実験のように、自分の本名、つまり名前が無くても、見る聞く触る考えるという経験をあなたはしました。

ならば、その実験と同じように、「自分という名前」を仮に取り去っても、無条件に経験に紐付けてる「自分」を取り去っても、見たり聞いたり考えたり感じたりという経験は出来るのではないでしょうか?

まとめます。

・今までずっと生きてきた人生の中で、見たり聞いたり感じたり覚えたりといった事してきた主体そのものが 「自分」だと信じてきた。だから、自分なしでは五感を通じた経験も思考も出来ないと頑な信じ、疑いもしなかった。

・モノは五感の経験などを通じて、そのモノを認識している。ところが「自分」は、触る事も見ることも出来ないのにも関わらず、「自分はいる!!」と頑なに信じているが、果たして本当か?

・ならば、前回の記事のように、自分という名、自分ががいなくても経験は出来るのでは?

次の記事に続きます。