自分がいない その1


こんばんわ。なるほどです。

これから、何回かにわたり【自分がいない】ことを確認していきたいなあ、と思います。

最初の記事では、
経験する主体(つまり自分)に名前が無くても経験は可能であることを実験を通して気づいてもらいます。

次の記事では、
【自分】というものをあなたがどうとらえているか、そして、そのとらえてるものに【自分】という名前を付けて来たことを改めて考えてみよう、見直してみようと思います。

最後の記事で
経験には【自分が無くてもさほど困らない】ことを探って行きます。

では早速。最初の記事です。arinasi

このブログを今、あなたは見てます。
スマホで見てるか、ipadで見てるか、パソコンで見てるか、とにかく画面をあなたは見てます。

そして、あなたは、自分自身が、画面を見てることを分かっています。

あなたには名前があります。名前を借りに、山田太郎とします。もちろん、実際は本名でいいんです。

そして、あなたは、自分自身が山田太郎であることを分かっています。

まとめると、、

【山田太郎が画面を見てる】ということになります。

そういう意識でもう一度画面を見てください。

【山田太郎が画面を見てる】

ですが、本当にそうでしょうか?

試しに、あなたの名前、山田太郎を一時の間忘れたつもりになって下さい。

つまり、あなたは名無しのゴンベえです。

もう一度、上の【】の文章へ戻り、実際に山田太郎のとこをとってしまいましょう。

すると、

【    画面を見てる】となります。

では、この文章のままの意識で画面をもう一度見ます。

あなたには名前が無い。ほんの一瞬前までは山田太郎だった。でも、今は名前が無い。

画面を見てる。

もちろん、画面は見えます。当たり前ですね!

ここでちょっと考えてみて下さい。

今まで、あなたは山田太郎として物事を見てきたし、見たものを山田太郎として感じて考えてきたでしょう。

ですが、実際には、山田太郎という名前が無くても、山田太郎が自分だと分からなくても、日常生活で恐らくは、もっとも多い経験である、見るという行為に何の困ることも無いってことがこのちょっとした実験で分かったのではないでしょうか。

これは見ること以下にもいくらでも当てはまります。
食べること。聴くこと。歩くこと。笑うこと、などなど。

実際に是非、私の書いた事を確かめて下さい。鵜呑みにしないで、経験の中で確認してください。

ここまでをまとめます。

【自分自身の名が無くても、多くの経験をする事が出来る】

次の記事に続きます。