月別アーカイブ: 2015年8月


ひどく落ち込んでいる時や、めちゃくちゃ怒っている時、嬉しくってたまらない時。
こんな時には、かなり【自分】がいると思います。

大抵は、
「もう立ち直れん、、」とか
「あんのやろう!」とかなっているわけです。「あんのやろう!」の時は、自分自身じゃなくて、あたかも相手に対して意識が向いてるような感じがしますが、実は違います。

「あんのやろう!」って激しく怒っている自分がハッキリいるわけです。怒っている自分をちゃんと意識してます。

また、ある特定の何かにこだわっている時、例えば、とても思い入れの強い物を失った時なども同様です。更に、その失った原因が自分にあったかも?なんて思っている時にも、「ああ〜!あの時にあんな事するんじゃなかった〜」なんて時は、なおさら【自分】がハッキリといます。

なんか分からないけど、普段はアチコチに行っていて忘れていた【自分】がギュ、ギューっと圧縮されて中心に集まって【オレ、オレ】【ワタシ、私】って言い始める。

jibun

 

 

こうなると喜怒哀楽、あらゆる行為の真ん中に、自分が先ずいて、周囲に自分と異なるモノゴトが無数に存在する。

【自分】が先ずあって、モノゴトを体験するって思い込むのも無理はありません。が、この記事で書いてるように、「本当にそうでしょうか?」って事です。

あれが無い!これが足りない!って思って、何とかしようとする。その事自体は別に悪い事でもなんでもありません。

アレとコレを分け、比較して、差を見つけて【自分】がそう認識する、と思い込んで今まで来たわけですが、もし、【自分】がいないと言うことになると、「無ぇ〜」とか
「全然足りないじゃん!」とか、云っていたこと自体成り立たなくなってしまいます。

足りない、無いって認識してた【自分】がそもそもいないんですから、足りないもへったくれもありません。
※これは気付きの記事です。そういう視点で読んで下さいね。

上の方で書いた「もう立ち直れん、、」とか「あんのやろう!」っ無った時も、もしこの記事の内容を日頃実践して納得出来かけたりしてると「ん?!このめちゃくちゃ沈んでたり、めちゃくちゃ怒ってる【奴】ってなんだ???」ってふと、思い出したりします。

さすがに【自分がいない】と、腑に落ちなくても、【一体誰が怒ったり、沈んだりしてんだ?】という一瞬は訪れたりもします。

感情や思考を無くせ!というわけでは全くなく、行為の真ん中、感じたり、起きてる事の真ん中、見たり聞いたりする事の真ん中に、【ハッキリとした自分が果たしているのか】って疑問を持つ。

目覚めの始まりはこんなとこにもあります。


いつも同じほうが安心するし。


人のアタマは、生きて行くのに、特に効率的に生きていけるように、かなり便利な動きをします。例えば、パターン化なんてその代表的な例です。

「俺の想いを形にすんのと、そんなのどんな関係あんだ!他のこと教えろ!」って声も聞こえそうですが、ドシドシと書きます。効率的ってことは楽ちんってことです。楽ちんってことは、アレコレやらないってことです。

あなたが、会社勤めなら、車や電車、バス、自転車など様々なルートで、でも、ほぼ毎日、【おんなじルート】で勤め先へ向かうはずです。【ろくに考えもせずに】。

ようく調べたら、身体のエネルギー消費を無意識に減らすため、歩数や歩行ルート、乗車車両、さらにその車両の位置まで決めてるかも。でも、一度決めれば、そうは変えないはず、いえ、【変わらない】はずです。

 

 onaji

パターン化してればしてるほど変えません。あなたは。だって変えるの面倒くさいから。面倒くさいってのもパターン化です。面倒くさいから、いつも、【同じやり方、同じ方法】でやろうとします。いえ、【気付いたら、おんなじやり方をしてます。】

そして、おんなじやり方したことすら気付きません。何故って?イチイチ、おんなじやり方だっけ、いつもと一緒だったなんて、考えるの面倒くさいから。だから、一度、決まったパターンはそう変わりません。

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この面倒くさいからおんなじパターンってのが、思考の癖、観念だったら、どうしますか?自分じゃ変えたつもりでも、そうは変わりません。いえ、変えません。だって、面倒くさいから。それが、ヒトが効率的に生きるってことです。

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ところで。

あなたの周りは、めまぐるしいほど、変わっています。一瞬たりともおんなじままのものなんてありません。人の気持ち、行動、あらゆるものが変化してます。

変化してる、あらゆるものが、そうあなたも変化してるはずなのに、何故だか、あなたが見る世界や結果もいつも一緒のように感じたり、見えたりするのは、ちょっと変、いや、だいぶ変じゃないですか?

「何言ってんだ!お前がさっき、パターン化してるからって言っただろ。いつも、気付かずに、おんなじパターンでやるから、おんなじ結果になるに決まってんだろ!!」ってドスの効いた声でツッコまれそうですね。

でも、よくよく、それこそ、よく考えるとやっぱり変です。

周囲の状況は絶え間なく変化してる。
+
同じパターンで実行する

周りが変化してるのに、同じ結果、になるのでしょうか?

しかも、その周りはよくよく見たら、更に変化した沢山の事から成り立ってるのに、条件も環境も一瞬も同じものは無いのに・・・・」

なのに、同じ結果?
なのに、同じように見える?

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こう考えるほうが、納得感があるように感じるのは私だけでしょうか?

面倒くさいから、あらゆる条件が変化していても、【おんなじ結果になるように、自ら考えたり、おんなじ結果になるように、無意識に自分自身でしてるのでは?】

onaji

これはつまり、あらゆる変化する条件に、あなたの考えや行動が影響して、ちゃんと面倒くさい人生にならないように、効率的に、決まったルートで、決まった形で生きれるように、自らしてるってことになりませんか?

そう、生きるのが面倒くさい事にならないように。

もう一度、しつこくしつこく書きます。

私たちが思う以上に、遥かに生命の仕組みは良く出来てます。それは驚くほど、私達が【効率的に楽ちんに生きれるように、工夫されて】ます。

でも、効率的なのと、面白さは相容れません。

毎日とは言わないまでも、少しワクワクした時間を過ごしたいなあ〜って、それこそ、思うなら、今と違う世界を見たり、体験したいなあ、と思うなら、【効率的に生きるために無意識に働くパターン化に逆らって動く】ってのも手です。


本当は手放したくない?!


自分の中にある、わだかまりや、様々な感情などをリリースするメソッド。セドナメソッドほか色んなものがあります。私自身はセドナメソッドを中心にずいぶんやりました。その中で、いろんな体験を通して知ったこともあります。今日の記事では、その中のひとつをご紹介します。

 

これは過去にもブログで記事にもしましたが、このサイトでスタートした【ストリーミングリリース】の中でも、実際に受けた方から話があったものです。出来れば、記事をただ読むだけでなく、もし、今リリースに取り組んでるなら、そういう目線で是非よんで下さい。
※セッションの受講者の方も「まさか、自分がそうだとは思っていなかった~」とびっくりしてました。

抱えているのはとても苦しかたったりするものを手放す時に、一番大切なのは「手放すと決める」ことだと思います。

あなたの家で何か要らないものがあったとします。家も手狭だし、処分しよう。そうあなたは思いました。あなたは、その要らないものを手に取ってゴミ箱のところまで行きます。あなたはそのまま、手からその要らないものを放して、ぽい!

ハイ、これで、ゴミはひとつ片付きました。

思考や感情のリリースも、これと何も変わりません。家で要らないものを捨てる。全く一緒です。でも、セッションをやっていたりその他の場面で「手放すことがうまく出来ません」と相談を受けます。

そういう時、私が云うのは「本当は、あなたは手放したくないのかもしれませんよ」 です。

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でも、皆さん大体は(へ?! 手放したくやっているのに、そんなことはあるはず無いじゃん)と思っているようです。ですが、「そんなことはないんじゃないかな~・・・」と私は思います。

もちろん、手放しがうまく行かない理由は他にもあります。一概には言えません。ですが、さっきのゴミ捨ての例をここでもう一度思い出して下さい。

ゴミを捨てる。そう決めたからこそ、ゴミ箱に要らないものを捨てられたわけです。
ゴミを見つけても、「捨てる!」そう決めなければ、ゴミはいつまでたってもそのままです。実に当たり前です。思考や感情のリリースも、そうは変わりません。

「手放す!」そう決める。淡々とした強い意図、手放すという意図が大事です。
※手放せたスッキリ感があるかどうかはまた別の話です。

だからこそ、手放せていなく、何かやろうとしていることが出来ないなら、私が書いたように
「本当は私は手放したくないのでは?」と疑ってみるといいです。

※「そんなことはあるわけないよ。だって私は手放したいんだから」って私も何度も否定してましたが、実際に、後で「うそ?!~俺って実は手放したく無かったのか!!!!」っていうのが何度もありましたから。


自分がいなくても怖わくない


自分がいない、という記事(その1その2)を書いてますが、自分がいなかったら、とんでもないことになるんじゃないのか?!どうなるんだ〜!! 何が起きるんだ~って思ってる方も大勢いると思います。

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でも、自分がいないことは結構あります。

何かに集中したり、好きな音楽を聞いてくつろいでいるとき、ほんとに美味しいものを食べて味わっている時。自分はいません。ましてや、自分の本名なんて、上に書いたような時に出てくるはずもありませんね。自分のことを「山田太郎が集中してる!」なんて言ったら、逆にちょっと変です(笑)

ですが、このちょっとしたこと、ここに鍵があります。

我を忘れて集中したり、音楽聞いていたり、味わっている。我を忘れて・・・・そう自分がいない、つまり、自分で自分がいない事には、気づいていません。すると、日常生活の中で記憶や意識に残るのは「自分がいる時間や経験」になります。

自分がいない間の事は、経験していることすら意識には登りません。当たり前ですね。
これが「自分がいる」の構造です。

自分がいて、周りにたくさんの物と事があって、自分と物事が様々に関わっている。
目覚めると、この構造が崩れます。ほんの一瞬でも、【自分がいない】事に気付けば、それは目覚めです。
自分がいないそんな特別なことではありません。


自分がいない その2


自分がいない ことを考えたり、実験的なもの通して考える3回のシリーズです。

こちらが、自分がいない その1です。

自分がいない のその2の記事は以下です。

【自分】というものをあなたがどうとらえているか、そして、そのとらえてるものに【自分】という名前を付けて来たことを改めてか考えてみよう、見直してみようと思います。

 

今、あなたは、記事を読んでます。少し前には寝起きで歯を磨いていたかもしれません。朝ごはんを食べていた方もいるでしょうか。
昨日の出来事を思い出したり、今日の予定にウキウキしている方もいるはずです。経験の中身は違えど、こういったことが日々続いていると思います。

見たり聞いたり、触ったり、感じたり、考えたり、思い出したりする。そういった積み重ねそのものが、正に自分の人生だと思い、信じてきたはずです。

「自分が見た」
「自分が聞いた」
「自分が触った」
「自分が感じた」
「自分が考えた」
「自分が思い出した」

自分 - 見る
自分 - 聞く
自分 - 考える などは常にひとつながり。

「【自分】以外の一体誰が見たり聞いたり考えたりなどするものか!」
そう強く頑なに掴んでいる、いえ、当たり前となっているでしょう。
「考えたり、味わったり、感じたりするのは【自分】がいるからこそだ!」

その中心にドッかといる自分って何でしょう?

あなたの周囲にはたくさんの物があります。それは目でみたり触ったりまたニオイを嗅いだりといったことを通して、あなたは、そのモノを「認識」してるはずです。「ああ。コーヒーカップだな」と。主に五感の刺激を通じて、いえ、逆に言えば五感の刺激なしには、モノを認識することはないでしょう。

では。確実に「自分がいる」 モノと同じか、それ以上に確実に「いる」と認識している「自分」

何を根拠に「自分がいる」と、あなたは確信してますか?

自分は見れません。 見れるのは「身体」です。
自分は触れません。
自分にニオイはありますか?
自分に色や形はありますか?コーヒーカップのように。
自分に音はしますか?

1つ1つ分かれたモノのように、見ることも出来ず、触ることも出来ず、ニオイもなく、色もカタチもないのに、本当に【自分】なんているのでしょうか?

少し視点を変えます。自分というのも名詞、つまり名前です。ひとつ前の記事でやった実験のように、自分の本名、つまり名前が無くても、見る聞く触る考えるという経験をあなたはしました。

ならば、その実験と同じように、「自分という名前」を仮に取り去っても、無条件に経験に紐付けてる「自分」を取り去っても、見たり聞いたり考えたり感じたりという経験は出来るのではないでしょうか?

まとめます。

・今までずっと生きてきた人生の中で、見たり聞いたり感じたり覚えたりといった事してきた主体そのものが 「自分」だと信じてきた。だから、自分なしでは五感を通じた経験も思考も出来ないと頑な信じ、疑いもしなかった。

・モノは五感の経験などを通じて、そのモノを認識している。ところが「自分」は、触る事も見ることも出来ないのにも関わらず、「自分はいる!!」と頑なに信じているが、果たして本当か?

・ならば、前回の記事のように、自分という名、自分ががいなくても経験は出来るのでは?

次の記事に続きます。


自分がいない その1


こんばんわ。なるほどです。

これから、何回かにわたり【自分がいない】ことを確認していきたいなあ、と思います。

最初の記事では、
経験する主体(つまり自分)に名前が無くても経験は可能であることを実験を通して気づいてもらいます。

次の記事では、
【自分】というものをあなたがどうとらえているか、そして、そのとらえてるものに【自分】という名前を付けて来たことを改めて考えてみよう、見直してみようと思います。

最後の記事で
経験には【自分が無くてもさほど困らない】ことを探って行きます。

では早速。最初の記事です。arinasi

このブログを今、あなたは見てます。
スマホで見てるか、ipadで見てるか、パソコンで見てるか、とにかく画面をあなたは見てます。

そして、あなたは、自分自身が、画面を見てることを分かっています。

あなたには名前があります。名前を借りに、山田太郎とします。もちろん、実際は本名でいいんです。

そして、あなたは、自分自身が山田太郎であることを分かっています。

まとめると、、

【山田太郎が画面を見てる】ということになります。

そういう意識でもう一度画面を見てください。

【山田太郎が画面を見てる】

ですが、本当にそうでしょうか?

試しに、あなたの名前、山田太郎を一時の間忘れたつもりになって下さい。

つまり、あなたは名無しのゴンベえです。

もう一度、上の【】の文章へ戻り、実際に山田太郎のとこをとってしまいましょう。

すると、

【    画面を見てる】となります。

では、この文章のままの意識で画面をもう一度見ます。

あなたには名前が無い。ほんの一瞬前までは山田太郎だった。でも、今は名前が無い。

画面を見てる。

もちろん、画面は見えます。当たり前ですね!

ここでちょっと考えてみて下さい。

今まで、あなたは山田太郎として物事を見てきたし、見たものを山田太郎として感じて考えてきたでしょう。

ですが、実際には、山田太郎という名前が無くても、山田太郎が自分だと分からなくても、日常生活で恐らくは、もっとも多い経験である、見るという行為に何の困ることも無いってことがこのちょっとした実験で分かったのではないでしょうか。

これは見ること以下にもいくらでも当てはまります。
食べること。聴くこと。歩くこと。笑うこと、などなど。

実際に是非、私の書いた事を確かめて下さい。鵜呑みにしないで、経験の中で確認してください。

ここまでをまとめます。

【自分自身の名が無くても、多くの経験をする事が出来る】

次の記事に続きます。


目覚めとリリース


■リリースの前

リリースに出会う前。それは結構しんどかったです。

やりたい事がやれない。なんか知らないけど、えらく生きてるのがしんどかったです。

ですが、リリースを始めて、自分でも良く分からないけど一生懸命頑張って、歯食いしばって生きてたのが、驚くほどラクになりました。同時に、色んなことも変わりました。

 

■自分がいない

リリースをめちゃくちゃやっていたある夜。「あ、自分なんていないんだ」って突然気づきました。

今まで、見て聞いて触って考えて、感じて来た中に「自分」はいなかった。

同時に「自分が生きてきた世界」も無かったことにも気づきました。

 

■【自分の人生】と【本質】

あなたは、やりたいことがあって、気持ちの動きがあって、考えたり、当てはめたり、思い出したりしながら、身体を使って時間の流れの中で生きてます。

止まったり、進んだり、右に行ったり、左にいったり。

喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり・・・。

で。この奥というか、底というか、そこに【自分の本質】あります。

自分の本質とは、【自分がいて、その本質がある】って意味じゃあありません。

自分がいない、ない、本質のことです。

これは、【自分の人生】と【本質】。

どっちが本当でどっちが嘘とかいうものではないです。

そして。

リリースは【自分の人生】につながります。

目覚めは【本質】につながります。

 

■二本の柱

今まで、人生をラクに進むのに役立つかな~って話と

本質ってなんだ、という話をかなりごちゃごちゃと発信してきました。

今後は、あえて、ハッキリと分けて発信していきます。

人はそれぞれ。

目覚めたいって人もいれば、もっと人生を楽しみたいって人もいます。

なので、サイトの情報も分けます。セッションも分けていきます。(サイトが壊れてセッション関連情報も全アウトなので、少しお待ち下さい。ごめんなさい・・・)

では。

キレイさっぱり無くなったこのサイトに、新たな二本柱から立てていきます。

最後に。

寄せて頂いたコメント、セッション受講者の声として載せることを許して頂いた方の感想もなくなりましたが、再現できるものは極力再現したいと思います。コメント頂いた方、セッション感想頂いた方、すみません・・・